(C)Comme des Cinemas
「桜花」とは、太平洋戦争末期に日本海軍が開発した特攻兵器である。爆弾を積んで敵艦に体当たりするのは「神風」と同様。違うのは、攻撃機(一式陸上攻撃機)の下部に吊るされ、敵艦の目前で切り離された後、短時間で敵艦に突っ込むという点だ。
一種のロケット機でありすこぶる高速。しかも至近距離から接近するため、迎撃される可能性が低く、戦局を打開する切り札として期待された。しかし、実際は、桜花を搭載する母機が目標地点に到達する前に撃墜されることが多く、大した戦果を上げることはできなかった。
「死ぬも生きるも一緒だった」
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目標を完遂することなく、まさに桜のごとく散って行った、多くの若いパイロットたち。出撃命令イコール死の宣告だった。命じる側も苦しかったろう。そのつらい役割を担っていたのが、元・海軍大尉、林冨士夫。映画で澤田正道監督のインタビューを受ける人物だ。澤田監督が質問し、林が答えるという一問一答式で進んで行く。
「桜花」作戦計画を聞かされた時の気持ちを問われた林は、「そんな話があれば行くに決まっている」と自ら進んで志願したことを強調する。戦時中、兵士にとっては「死ぬも生きるも一緒だった」と語る林。死ぬことは恐怖でも何でもなかったのだ。初めて桜花を目にした時は「ああ、これが俺の棺桶か」と思った。
大きな敵艦が目の前に横たわっている。「それに向かって突っ込んでいくパイロットといったら、いい気持ちでしょうなあ」。ぎょっとするような言葉がポンと出てくる。
いつでも出撃する覚悟はできていた。だが、出撃の機会は与えられなかった。与えられたのは、出撃者を指名する役目だった。筑波海軍航空隊で操縦技術を教えたパイロット、応援部隊として送り込まれてきた学徒兵。ほぼ同年輩の部下たちに、次々と出撃命令を下していった。
「育てておきながら、最後には鉛筆の先で殺す」。その矛盾に耐え兼ね、出撃に送り出した後は、草むらにしゃがみこんで泣いたという。
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